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塙保己一(埼玉県本庄市児玉町の偉人)

塙保己一

塙保己一は、江戸時代の中頃、延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改めます。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗っていました。

幼少の頃から身体が細く、決して丈夫ではなかったようです。草花を好み、非常に物知りであったといいます。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明しました。15歳で江戸に出て、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せます。当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。

保己一の学才に気付いた検校雨富須賀一は、保己一に様々な学問を学ばせました。国学・和歌を萩原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮に学んだのです。
塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めました。

34歳のとき”世のため、後のため”に「群書類従」の編さんを決意し、以後40数年の年月をかけて失われつつある各種文献を収集してまとめた「群書類従」を完成させました。「群書類従」正編666冊、続編1185冊は、現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。

また、和学講談所の設立及び運営をし、国学の発展に大きな業績を残し、さらには、文政4年(1821年)には、当道座の最高位である総検校に昇進しました。

塙保己一記念館

記念館では塙保己一の遺品及び関係資料(埼玉県指定文化財)を収蔵展示し、保己一の残した偉業について紹介しています。保己一の大きな業績である群書類従の編纂や和学講談所の紹介を中心としつつ、故郷に建つ記念館として、保己一と故郷との関わりにも重点をおいた展示。また、ヘレンケラーが人生の目標にしたという逸話にちなんだコーナーも。設置記念館では塙保己一の遺品及び関係資料(埼玉県指定文化財)を収蔵展示ています。

住所 本庄市児玉町八幡山368番地アスピアこだま内

TEL 0495-72-6032

塙保己一記念館 埼玉県本庄市児玉町
塙保己一記念館 埼玉県本庄市児玉町

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埼玉県本庄市は、赤城山や榛名山が望まれ、南西は上武山地を抱え秩父の山系が望む自然豊かな地域です。江戸時代には本庄地域に新たに中山道が整備され、児玉地域では鎌倉街道をもとに、中山道脇往還川越道が整備され宿場町としても発展し、本庄宿は天保14年(1843)に、中山道最大の宿場町となりました。街道の町として繁栄した本庄地域には、江戸と京の経済や文化が入り、多くの文人墨客や偉人も育ちました。保木野村出身の塙保己一は、江戸に出て盲目の国学者として大変な活躍をされました。

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